当時は思っていませんでした。
全く想像できませんでした。
でも、
以下、こういう文章がかける日を、
こうやって迎えることができました。
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うち、貧乏でした。
一年同じ仕事が続かない父親が倒れたのが9歳。
「俺を殺す気か」
と、父は、絶対に入らなかった医療・生命保険。
そのおかげで、その後6年にわたる闘病生活に、
医療費は一切おりず。
当然亡くなっても、何も出ません。
誰が払ったかといえば、母親。
世の中はバブルだったみたいですけど、
母親は頑張っても、
すずめの涙の給料で、
それでも月額10万以上の医療費を支払い、
子供二人を育ててくれました。
今振り返っても、何をどうやって暮らしていたのか、
よくわからない、
と母はいいます。
当然、
夏休みだろうが、ゴールデンウィークだろうが、
外食や旅行をした記憶がありません。
夏休みの作文で、何を書いたらいいのか、
ネタを探すのが大変でした。
誕生日やクリスマスに、何かを買ってもらうとか、
そういう経験もありませんでした。
それに望んでいませんでした。
必死な母の後姿を見て、
何かを買ってもらおうなんて、思いませんでした。
金額面で、
自分の学業に差し支えが出そうになり、
進学が危ういときもありました。
助けてくれたのが日本育英会(現日本学生支援機構)と、
国の授業料免除のシステム。
学業さえ、ちゃんと成績をおさめれば、これらの認可がおりるので、
ある意味、 勉強=稼ぐこと だった、あの頃。
・・・・・・。
「お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさいね。お母さんを助けてね」
と、会う人、会う人、大人たちは、いうけれど、
どれほど、その言葉が重かったか。
自分なりに、精一杯、「しっかり」して、努力して、
でもどうやったって、経済状況も母親の苦労も、改善できない……
9歳の手のひら、いや、25歳の握りこぶしにだって、
その言葉は重く、何もできない日々が続きました。
振り上げたこぶしは宙を舞い、
自分のことだけで精一杯だった月日
父へのわだかまりも、
母へのわだかまりも、
今では感謝に変わりました。
ここだけを話すと、良い家庭だったのね、といわれます。
もちろん今、僕、母、妹の仲はものすごくいいです。
そしてもちろん、素晴らしい母親です。
感謝でいっぱいで、今も一番尊敬しています。
でも、
でも当時、
ボロボロの母の行動や言葉に、僕もボロボロでした。
学校でのイジメも加わり、
体調も心も限界まで追い詰められていました。
数年前に僕が12歳の頃に書いた遺書を
押入れの奥から見つけたときには、
ゾっとしました。
今、
ようやく、子供のころからの夢を、
この手で動かせるようになってきたみたいです。
奨学金は、妹の分も含めて、全額返済しました。
25年かけて、無利子で返金できるという、
ものすごくありがたいシステムなんですが、
早く返して、次の学生さんに活かして欲しいし。
最近、
母や妹にも、嬉しい転機が訪れ、
あらゆる手配を自分主体となって、
実家の引っ越しを決めることができました。
「母と妹は、僕が守る」
勢いしかなかった空回りに、ようやく中身がついてきたこの頃。
苦しかった時代を象徴する、今の実家から新居への引越し。
今回気づいたのですが、
今まで生きてきて、どこかで、いつも自分に、ダメ出ししながら、
もっとがんばれ、
もっとがんばれ、
まだだめだ、
まだだめだ、
と言い続け、
どんなに成果を出してもどこかで自分を認めてあげることが
できていなかったみたいです。
でも、
おそらく、
生まれてはじめて、
手放しで、本当に手放しで、
自分の今までの全てを、自己肯定できました。
「よくやったね、がんばったね、えらいね」
ずっとずっと、実は自分自身に言って欲しかった、
誰か他の人じゃなく、自分が自分にかけてほしかったこの言葉。
最後まで自分を認めてあげなかったのは、自分自身でした。
今まで、自分自身をたくさん褒めてあげてきた
つもりだったんです。
かなりできているつもりでした。
でも、今回、はじめて、
それが、心の底からはできていなかったことに気づきました。
ようやく、腹のそこから、
自分の頑張りを認めてあげることができ、
ボロボロ涙が止まりませんでした。
強さとは、
ゼロからプラスへの力、というよりも、
マイナスをゼロに変える力を言うのかもしれません。
先のことはわからないけれど、
きっと、もっと、ずっと、よくなっていく。
9歳の自分に、「お〜い、大丈夫だよ〜」って、届けたい。
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